![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=331x10000:format=jpg/path/sf083948174f69a4a/image/i434d3b9d660578cc/version/1631794430/image.jpg)
子どもの頃から勉強が嫌いでした。
自分なりの(都合の良い)解釈としては
毎日「勉強しなさい」と言われ続けたことで
そうなったのかなぁ〜と。
大人になって、没頭するほど好きなことに出会えたり
ありがたいことにそれができる環境に
身を置くことができています。
今は写真がそれで、
もっとできるようになりたいと思った時に
調べたり本を読んだりノートに書いたりする作業のことを
形式的に「勉強」と呼ぶことはありました。
でもそれにちょっとだけ違和感があって、、
自ら好きなことを追求していくのは
私が好きではなかった
やらされる感満載の「勉強」というより、
「知りたいことを満たしている」感覚でした。
![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=531x10000:format=jpg/path/sf083948174f69a4a/image/i75df4687e7aa7621/version/1631702385/image.jpg)
子ども時代の塾や習い事には
充実感があった気がします。
学校と違い、自主的に求めた勉強の場だったし
自分に合う内容や先生を選んだこともその理由かと。
目標に向かってがんばらないといけない時期もあるので
もちろん大変な時もありましたが
自分(と親)がいいと思った先生に
近い距離で見守ってもらっているので、
身につく・できていく感覚があったように思います。
これは間違いなく、実になる「勉強」。
でもここで嫌な感覚はなくて
大人になった今でも役に立っていることが多くあるし
やっていてよかったなぁと心から思います。
もしかして「勉強しなさいと言われる」のが嫌いなのかも…!
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私の中では、
"身についているか"をちゃんと感じられるのが大切です。
本やネットに書いてあることを読んだりするのは
"情報を得ている" 段階。
情報を見ることと
それが身についたかどうかというのは、
また別のこと。
「前よりできるようになりましたね」
「これはやらない方がいいと思う」
「こうするともっと良くなりますよ」
自分(がやっていること・作り出すもの)が
今どうなのかを知りたいし、
もっと良くなるためのことを知りたいから
こんなことを言ってもらえるのがすごくうれしい。
確信が得られる。
不安や疑問が少しずつ小さくなっていく。
私の中には、人に教わったり助言をもらうことで
身につく感覚があります。
「勉強しなさい」と言われてやるのと違って
自ら好きなことを追求していくのは
「自分を知る」感覚で、
これを満たしてくれるのは
人を介して学ぶこと。
それを「勉強」と呼ぶのなら、
私は本当は好きなのかもしれません。
![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=326x10000:format=jpg/path/sf083948174f69a4a/image/i249df979b3939c40/version/1631794459/image.jpg)
誰しも子どもの頃は、運動会・部活動
テスト・成績表・受験など…
様々なことで順位や合否をつけられてきたと思います。
数字で表現されることには
結果や成果がはっきりと出るので
それで得られることもたくさんあると思いますが
大人になった今、そういう環境に身を置くかを
自分で選ぶことができますよね。
順位や優劣を決められることは
ある程度経験してきたし、
今の私には必要ないかなぁと思っています。
(人より多く経験したわけではなく、あまり性に合わない)
他の誰かと比べるよりも、
過去の自分との比較ができれば十分。
少し前の自分よりも成長できているか
魅力を磨いていけるのか
私はそういう世界で楽しみたい派で、
それを実感できる学びが好きということですね。